イベントレポート

みんなが安心して表現できるコミュニティ、分断をつなぐ対話の場をつくる――三茶TALK#3開催レポート

「自分が暮らすまちに、気持ちよく仕事ができる場所をつくろう」。

三茶WORKは、三軒茶屋に住まう人たちのそんな思いが集いスタートしたコワーキングスペースです。言うなれば、「自分たちがよりよく生きるための場」ともいえます。

トーク企画「三茶TALK」の第三弾は、「コロナの時代に生きる場づくり」をテーマに、そんな「よりよく生きるための場」について健康や医療の側面から向き合う場としてオンラインで開催されました。

ゲストに迎えたのは、山形ビエンナーレ2020の芸術監督も手がけた医師の稲葉俊郎先生と、自身の難病を乗り越えた経験をもとに、スリランカでアーユルヴェーダを基にした統合医療施設を計画するTagiru.代表の伊藤修司さん。

三茶WORK共同代表の吉田亮介と、同コミュニティマネジャーであり、アーユルヴェーダカウンセラーとしてeatreat.を主宰する小林静香がモデレーターを務め、「場のちからを構成するもの」「場と個の関係性」「全体性」といった内容についてお話ししたトークの内容をお届けします。(以下、敬称略)

そこにいるだけで内から力がわきあがる場をつくりたい

小林静香(以下、小林) 今回のテーマ「コロナの時代に生きる場をつくる」は、「自分が健康でいられる場をつくる」というメッセージが込められています。それは、ウイルスとの共生、人との関わり方、どんな場で暮らしていくか、といった具体的な問いにもなり、稲葉先生と伊藤さんの知見やご意見はその問いや悩みに対する一筋の光になると考え、企画しました。まずは、お二人の自己紹介からはじめていきたいと思います。

稲葉俊郎(以下、稲葉) 私はこの3月から軽井沢病院で医者として働いています。その前は東大病院で循環器内科の専門医として勤務していたのですが、大学病院での医療にちょっと限界を感じるところがあり、「私たちはどういう医療を求めているのか?」と考えていたんですね。そこで、東京でも色々取り組んでいましたが、自分が生きている間に形にできる場に移って取り組みたいと思い、軽井沢に移動しました。

僕は医療とは、生活や人生などの生きることの一部にあると思っています。究極の医療は、治す医療ではなく「治る」医療。いつのまにか治った、となるのが理想です。街のなかで人と話したりするだけで元気になるような、「そこにいるだけで元気になる」という「治る場」をつくることを僕は最終的な目標としています。

そういう場づくりの取り組みの一つとして「山形ビエンナーレ2020」(9月閉幕。アーカイブはこちらから)に芸術監督として参加しました。芸術祭とは、人間が集まる場という観点では医療的な場にもなりうるということを提案したいと思って臨みました。書籍『いのちを呼びさますもの』では個人のいのちについて言及し、そのなかで生まれた「個人のいのちはどういう場で輝き対話が生まれるのか」という問いについて、先日上梓した書籍『いのちは のちの いのちへ』で綴りました。

[稲葉俊郎さんと、新著『いのちは のちの いのちへ』(2020、アノニマスタジオ)]

 

伊藤修司(以下、伊藤) 「Tagiru.」という、アーユルヴェーダ(統合医療、伝統医療)のリトリートプログラムを受けられるスリランカの施設(現在建築中、2021年末〜2022年オープン予定)の経営をしています。施設を構えるのはスリランカの海沿いで、沖縄の離島やハワイのように、そこにいるだけで「いのちが取り戻される」ような場をイメージして設計しています。

僕は実は学生時代、医学部に進学し途上国の医師になろうとしたのですが、その後、寄付や情勢で左右されることなく、経済的持続性の観点から途上国支援に取り組もうと考えを改め、経済学部に転部した経緯があります。そしてP&Gに入社し、日本やシンガポールで働いたのち、マザーハウスというバングラディシュやスリランカなどの途上国といわれる場所でジュートやレザーバッグなどのプロダクトを製造するブランドで、ビジネスと途上国支援の両方に取り組んでいました。そんななか多発性硬化症という指定難病に罹患し、長期間強い薬を打ちながら闘病していたのですがなかなか改善されなかった。

しかしある日出張先のスリランカで、アーユルヴェーダの施設に1ヶ月程滞在してみると、信じられないくらいに改善したのです。そのまるで生き返ったような経験を原点に、自分でもそうした施設をつくろうと思ったのが、Tagiru.プロジェクトの背景です。

アーユルヴェーダとは、生活全てにかかわる統合医療で、すべて体系立てられている古来からの知恵の集積です。ひとり一人に合った食養生や朝晩の過ごし方といったケアをしながら施設のなかでじっくり過ごすことで健康なからだを取り戻していく――そんな「生き物としての感覚を取り戻す」というのが、Tagiru.のコンセプト。名前は、内から力がわきあがってくる状態を表す「滾る(たぎる)」からきています。

[伊藤修司さんと、現在建設中のTagiru.の模型]

 

よりよく生きるための「治す」から「治る」へのシフト

小林 伊藤さんの「たぎる」と稲葉先生の「いのちが呼びさまされる」という言葉は、表現の仕方は違っていても同じことを言っていて、「これからの時代の健康」のヒントになりそうです。具体的に、「たぎる」「いのちが呼びさまされる」という感覚を言語化して共有してみたいのですが、そうした体験のエピソードやご意見を教えていただけますか?

伊藤 先に述べた初めて訪れたアーユルヴェーダ施設では、食事をはじめ、朝のマッサージ、ヨガ、夜の瞑想といった知恵を丁寧に実行し、徐々にからだを落ち着けていきました。すると、数週間かけて左半身の痺れが薄れてゆき、心も落ちついていった。いきなり切り替わったのではなく、全部で1ヶ月程の間じっくりと変化しました。この、自分の内側からこんこんと湧き上がるようないのちのエネルギーを感じたことが、いまの僕の活動の原点であり、「いのちが呼びさまされた」経験です。

稲葉 僕は「いのちが呼びさまされる場」というと温泉をイメージします。瞑想や座禅もいいですが、つい「今までにない境地にいかなければ」「このやり方でいいのか」なんて頭で考えてしまいませんか。今世の中には頭で考え過ぎて苦しむ人が多いというのに、それでは癒せない。

頭で考える前に勝手にからだがゆるむ環境、つまり温泉のたゆたう湯でぼーっとしていろんな悩みがなくなる瞬間とか、自分が一番リラックスする身体感覚を探るといいです。「自分がいつでもそのモードに入れるのは何か」と考えるのも自己治療みたいなものですし、それは「治す医学」から「治る医学」にシフトするためにみんながもっておくといいサバイバル技術なんじゃないかと思います。

考え過ぎちゃうのはよくない。頭っていうのはいつも人間にとって曲者なんです。人間にとってこの異物みたいな頭や脳とどう付き合っていくかというのも、大事な問いだと思います。

 

異なるものの共存から生まれる磁場の力

吉田亮介(以下、吉田) 温泉やリトリート施設といった場の話がありましたが、ではそういう「場のもつ力」って一体なんなのでしょう。

稲葉 医療の場とは、診療の仕組みや医療設備があることよりも、元気になったり、優しくなったりする方が要素として医療的であり、いのちというフィロソフィーがそこにあると僕は思います。そのフィロソフィーが中心になければ、たとえ病院でもただの経済の場になってしまう。

僕は、銭湯、美術館、そして芸術祭というのも医療的な場になりうるのではと思い、山形ビエンナーレ2020は「いのちのフィロソフィーを共有する場」としての芸術祭を構想しました。

芸術祭とは、ともすれば有名アーティストの作品を見る場という「消費される場」になりやすいなかで、僕は芸術を媒介に新しい場をつくることが芸術祭の意義だと思っています。また「祭り」というからには、そもそも祭りとは古来から何のためにやってきたのか、人はなぜその場に集っていたのかという本来の意味合いを考えると、やはり医療的な場としての要素をもつと思うんです。

山形ビエンナーレ2020Webサイトより]

伊藤 「芸術」と「人を癒すこと」は、古代ギリシアの舞台など、歴史を遡るほど等しいものだったということを思い出しました。普段稲葉さんは病院で臨床医としてコロナ対策も担当されていますが、日々活動している病院という場やそこでの活動の関係性をどう捉えていますか?

稲葉 山形ビエンナーレ2020の全体コンセプトは「全体性を取り戻す」でした。では全体性とは何かと問うた時、正解はなくて人それぞれですが、例えば星座を読み解くようなものだと思います。星としてはばらばらだけど、それをどう星座として読みとるか。同じように、自分を構成するひとつ一つをどう読み解くかというのが人生において大事で、自分にしかできない課題だと思うんです。

僕はいま西洋医学の病院で仕事をしていますが、自分の人生における全体性のつながりを考えながら、日々の診療、コロナ対策の仕事、芸術祭の取り組み、と全て同時進行させながら、様々な要素を交差させ、どういう場や社会にしていけるかという視点で自分の取り組みを統合させるイメージで活動しています。僕に限らずみなさんも、深い無意識のなかでこういう色々なことを結びつけたりしていると思いますよ。

吉田 「西洋医学の場で仕事をしている自分」と「芸術祭の活動をしている自分」は、病院の仕事のなかにもう一方の軸を取り入れるようなイメージなんでしょうか? 取り込むというよりも、それらは根底でつながっていて、あまり意識はしていないですか?

稲葉 武満徹という、東洋的な音楽と西洋的な音楽をひとつのかたちにしようとした音楽家がいます。彼は、東洋と西洋をただ混ぜても新しい音楽は生まれなくて、異なる性質をもつ音を同じ場に置くことで、緊張状態になり強いエネルギーが生まれる。それが私の音楽なんだという言い方をしていて、僕の活動もその捉え方と近しいものを感じます。

[武満徹《ノヴェンバー・ステップス》]

西洋医療のなかに東洋医療やアーユルヴェーダを「混ぜる」というよりも、まったく違う身体の世界観をもったものを同じテーブルに乗せる緊張関係から生まれる磁場、エネルギーのなかで、僕らは新しい身体感や生命感をもてるんじゃないかと思うんです。芸術祭の企画には、そういう意図もありました。

そもそも「いのち」とはそういうものだと思うんです。生の力と死の力がぐーっと拮抗して、緊張状態にあるもの。そういう状態のものに、生命が宿る。生と死の強い緊張状態の新陳代謝を繰り返しながら活動している、というのが僕の生命のイメージです。

吉田 三茶WORKの経営を考える時、利便性の追求と、数字では評価できない人とのつながりやまちでの楽しさはどうすれば両立するかと考えたりするのですが、これも同じく必要な緊張関係なのかなと思いました。

伊藤 そういったエネルギーの立ち上がらせ方もありながら、拮抗するのとはまた違う、現代社会のなんでも二項対立にして分断するような傾向はしんどさを感じます。右か左か、白か黒か、◯◯ならこうあるべき、ということに寄っちゃって。その余白のない感覚と逆のことが提供される場が、僕にとって生命の感覚を取り戻す場所な気がします。

アーユルヴェーダの施設は、日々の暮らしにバランスを取り戻すという観点で色々なケアをします。Tagiru.でも、リトリートという非日常の場でありながら、家でもそのリトリートが継続するようにデザインすることで、人の生活や心の余白を変えられるのではないかと思います。

三茶WORKもそういう場ですよね。これは東京近辺の感覚で、遠くにお住まいの方にはうまく伝わらないかもしれませんが(笑)、三軒茶屋って渋谷に対して余白だと思うんです。「渋谷らしさ」みたいなフィックスされたものがない、自分の感覚を基盤におけてユルさが許される場所。

小林 アーユルヴェーダの施設のような自分の心を心底癒す特別な場所も、温泉のようにちょっとしたお休みの日に行ける場所も、両方がこれからの私たちには必要ですね。それによって、普段の暮らしのなかで自分と全体を保ち、良いバランスがとれそうですね。

 

「全体性」から立ち上がるもの

小林 場のもつ力について話してきましたが、ここまで話してきたような場所で、自分自身がどう参加するといいのか、「場における個のあり方」について考えてみたいと思います。

稲葉 さきほど芸術祭のコンセプトで「全体性を取り戻す」という話をしましたが、そのテーマの根底にあるのは自分の人生のことです。人生で無駄なものなんてひとつもなくて、成功や失敗というのは長い人生の一瞬の断面でしかない。そういうタイミングの集合体が人生であり、それは死ぬことも含めて全体性だと思います。人生のなかで、時に自分のこころやからだや他者とも対話をしながら、「なぜ今という瞬間があるか」を振り返る、自分の人生という全体性を考える個人の存在が、これからの場において大事でしょう。

場の論理と個の論理というのはもともと矛盾していて共存が難しいものです。例えば個人が何かの状況を幸福だと思っても、別の人や集団全体とはズレがあったりする。そこをどう統合していくかというのは、新しい場のあり方を考えることにつながるはずです。場の大きさやそこにいる人数のバランスなど、場の力学って大事で、場の力に圧殺されずに個の力が生きる場というのが、全体性のある場だと思っています。

吉田 「全体性」という言葉をもうちょっと自分の腑に落としたいのですが、ずばり全体性とはどう捉えるといいのでしょう?

稲葉 むしろ、どうやって捉えていますか? 全体性って聞いた時、最初何を思い浮かべました?

吉田 僕自身は僕自身だけれど、世の中の色んなこととつながっていたり関係している……みたいな感じです。

稲葉 うんうん。この問いに対して抱くイメージって、個人によってだいぶ違うんです。芸術祭で東北芸工大の学生と対話をした時に、「全体性を取り戻す」というのは問いである、と伝えて学生たちにどう思うかを考えてもらったところ30〜40人いてみんな違いました。

全体性とは「宇宙と自分のこと」という人もいれば、「コロナのstay homeの呼びかけでばらばらになった1日のこと」「こころとからだのバランス」という人もいました。今いる状況や向き合っている課題、何か損なわれていると思うことによって違うということです。日々生きるなかで「全体性を取り戻すには?」という問いに向き合い、それぞれがその気になることを糸口にピースをひとまとめにしていくと、何か自分のやるべきことが明確になるんじゃないかと思います。

全体性という言葉そのものではなく、全体性に意識を向けた瞬間に何が立ち上がってくるか、ということが大切ですね。

伊藤 自分の全体性って、例えば「嬉しいけどどこか悲しい」と矛盾するような、うまく言葉にできない自分の複雑な感情やからだの状態に丁寧に気づこうとしてみること。感覚や知覚のチャンネルがちゃんとひらいていることに近いと思いました。

 

コミュニティのあり方、分断をつなぐもの

最後に、お申し込み時に記入いただいた質問を中心に、Q&Aセッションを行いました。以下はその抜粋です。

 

Q1 「コミュニティのあり方についてコロナ前後で変化したことがあれば教えてください」

稲葉 変化したというか、していかねばという話ですが、コミュニティは人種や性別や宗教を超えて、いのちというものを核とするものに変化していかないといけないと思っています。いずれそうなるとは思っていますけどね。

今はその移行期にあって、これまで経済力や権力、地位や名誉といった幻影で社会を回していたと思うんですが、私たちが生きるいのちが中心に据えられた社会。自分のいのちのために生きることを私たちは自由に追求していいと思えるコミュニティや社会、追求する場をつくっていきたいですね。

アール・ブリュットという、障害をもつ人が描く、その人の魂そのもののような素晴らしいアートがあります。障害をもつ人というのは、社会に順応できなくて、ある意味社会のシステムからはじき出されている。しかし、はじき出された結果彼らは自分自身の内面と密につながり、表現が生まれ、周囲はそのアートに触れて、彼らが自由に生きることを表現できる安全な場を確保していこうとします。みんなが表現したり創作したりするというのが大事で、そういう場を僕らがつくっていかないといけない。それが新しいコミュニティ、共同体、国家になるのだと思います。三茶WORKが取り組んでいることも、ある種そういうチャレンジなんじゃないかと僕は受け取っています。

Q2 「世の中はいま分断する方向に力が働いてしまっている感覚があります。今日のトークはとてもよかった一方、つまるところ参加者はもともとこういうテーマに興味がある人です。色んな人が場に集い、お互いが認め合うような社会というのが理想だけれど、場づくりにあたって工夫していること、気になる点はありますか」

伊藤 分断がある場所にはあると思います。でも、私はもともとマーケティングやコミュニケーションの仕事をしていましたが、「SNSで分断をつくり出している(ように見える)人」は人口の3割もいないでしょう。きっと0.1%とか0.01%とか、ごく一部の人が目立ちやすい状況になっているだけです。メディアもそのほんの一部の盛り上がりを煽りすぎることで、分断している印象を余計に植えつけている状況になっていることも客観的に見るといいんじゃないかと思います。

Q2つづき 「それも理解する一方で、地方出身の身としては、田舎の友達と会話する感覚とこのトークを聞いている時の感覚をつなげるにはどうすればいいかというのは、肌感覚としてなかなか落とし込みが難しいです。分断という言葉がよくない気もしますが……」

稲葉 分断をつなぐのは、対話だと思います。対話には「質」があって、井戸端会議は対話ではない。例えばカウンセリングというのは、ただ対話するだけで相手の生きる力を呼びさましたり、元気を引き出します。その元気を引き出す対話とただの井戸端会議の違いは、対話者のその場における存在のあり方や、使う言葉の選び方、声の抑揚などあらゆる要素があるでしょう。

大半の人は、生後なんとなく言語を習得し、なんとなく会話としていると思いますが、質の高い、クリエイティブで優しさや思いやりがちゃんと還流するような対話とはどうあるべきかを、もっと真剣に考えるべき時代が来ていると思っています。

僕は今さまざまな国のあらゆるダイアローグ(対話)について学んでいるのですが、対話が分断をつなぐ可能性を大いに感じています。そういうやり方の実例も、実際にやってみながら学ぶ場をつくったり、病院をそういう対話の場に変えていきたいと考えています。

病院で対話によってほぐれていく心や、思いやりや優しさといった人が本来もっている魂がかき立てられる場面に立ち会うと、僕らも医療者として感動することがあります。「分断」について考える時、これからは対話の時代になるだろうと私は本気で思うのです。

* * *

コロナの影響で移動することが制限され、多くの人が「場」を取り巻く何かしらに変化があったこの半年。いつもの居場所にいられなくなったり、新たな居場所をつくったり、今もなお「場」を整えたり求めている方も多いのではないでしょうか。

トークの最後に伊藤さんは、Tagiru.建設中に感じたこととして「場所にいのちがある以前に、場所をつくるまでのプロセスにいのちが宿ることが大事」とお話しされていました。一方、三茶WORKでは、この11月に新たに拠点を増やすべく準備中だったり、将来的な場づくりも構想中です。コミュニティとしての場づくりも、物理的な場所としての場づくりも進行中の只中、大切に育んでいきたいと思います。仕事場を探し中の方はもちろん、三軒茶屋に拠点のある方、三茶WORK内のカフェが気になる方など、みなさんにお越しいただけることを楽しみにしています。

 

構成・文=原口さとみ

 

【登壇者プロフィール】 ※敬称略

▼稲葉俊郎(いなば・としろう)

医師、医学博士。1979年熊本生まれ。

軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督 就任)。

単著『いのちを呼びさますもの』(2017年)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年)(いずれもアノニマ・スタジオ)など。 https://www.toshiroinaba.com/

 

▼伊藤修司(いとう・しゅうじ)

Tagiru. 代表。自身のもつ難病「多発性硬化症」を、スリランカのアーユルヴェーダ施設滞在で大きく改善させた経験をきっかけに起業。現在、スリランカに伝統を重んじつつも今の時代にあったアーユルヴェーダを施すリトリート施設を準備中。2021年後半のオープンを目指す。千葉大学医学部中退、慶應義塾大学経済学部卒業。卒業後はP&G、マザーハウスで働く。84年生まれ。http://tagiru.com/